オランダの小学校一年生!

息子がこの9月からグループ3、日本でいう、一年生になった。

グループ1、2は幼稚園のような感覚の内容だが、小学校と同じ校舎内にありそのまま3に延長していくようなシステム。

グループ3からが学習の始まり。

アルファベットを毎日一つ以上、週に2、3ぐらいのスピードで学び、それぞれの筆記体で書く練習をしている。さらに母音が含まれた単語例をたくさん発音させ、学ばせている。

例えば’ i ‘ を習うとis, vis, mis, sis.

オランダ語の長母音、aa を学びそれが含まれた単語で練習。 aar, vaar, maar, saar, vaas…

あとは数字に慣れるための問題と、足し算をわかりやすく学んでいるところ。

ときどき工作の時間もあり、体育は週に2回。

週に一度かそれ以下の頻度で担任の先生と歌も歌うようだ。ただ音楽は年間を通して、定期的に外からのスタッフが来て、歌を中心にやるプロジェクトもあり、子どもの行く学校の場合はMuziekgebouw aan ‘t IJ でのコンサートで締めくくる。

アルファベットと計算は、グループ1、2でも予備練習は始まっていた。

7歳のグループ4の子ども達と半々で、合計クラスは25人。

一つ上のグループの子達はもっと難しいことをしていて、基本的にはグループ別に違うことをやっているが、教え合ったり一緒にやる時間もとる。隣のクラスと連携して、グループ3のみ、4のみに分けて隣のクラスとの交流も兼ねて、同じグループのみの時間も儲ける。

いろいろと日本と違うのだが、クラスも少人数で、とても気軽に(?)学習が始まる感じである。

机は5人か6人の寄せ合ったものを5つほど教室内に作り、共同学習がしやすそう。

自分の決まった机の中にいつも入っているのは、今やっているアルファベット練習帳の他に、名前のついた鉛筆一本に消しゴム一個。鉛筆削りが5つのテーブルグループごとに一個。

筆箱を持っていく必要がない。

入学までに何か道具をそろえる、という指示もまったくなく、家での宿題も課されない。

なんだか、親も楽、、、?!

机にはいつも木のサイコロのようなものが入っていて、信号のように、緑の丸、赤の丸、ほかにはクエスチョンマーク『?』の印。勉強中にわからないことがあるときは、『?』を上にして机に置く。

先生は教室をまわっているときに質問のある子のそのマークを見て、『何がわからないの?』と来てくれる。

合理的でわかりやすい^^

自主的に学習させる姿勢が強いように思う。

そうでなかったら、違う年齢とレベルの子ども達を一クラスにはまとめないだろう。

先日、初めての新クラスの保護者会夜7時半。まずはコーヒーか紅茶で一息。先生の案でPharrell Williams の Happyをかけながら教室の中を歩き(またはダンス?!)、音楽が止まったら近くにいる知らない人と自己紹介を互いにする、というスタートだった。3回ほどしかやらなかったので、未だに知らない人もたくさん。でも話した人には親しみが少し持てて、そして音楽で緊張がほぐれて、面白いことするな〜〜〜 またまたさすがオランダ。というよりその担任の先生の考え。子ども達にもそうやってやらせたそうだ。

最近はデジタルボードなので、そういう音楽もYou Tubeでささっと出てくる。

保護者会中デジタルボードの白みの強いあのコンピューター独特の光で目が疲れるなあと思った。

昔使っていたらしい黒板が教室の後ろ、となっている。(明らかに昔はそちらが前、のような位置)

デジボードでコンピューターソフトウェアを教材に併用しているようだ。

新しいことの説明も、グラフィックやアニメーションで説明をするものを見せてもらった。先生もそれを併用すれば、一人で説明して、書いて、、、という時代ではないのだろう。

息子は日本人補修校というのに土曜日だけ通っていて、そこでは昔からの日本式に黒板で勉強している。

ひらがなを中心に学び始め、同じ環境に住むハーフや純日本人のお友達も出来て、とても楽しそう。

生まれたときからここまで成長したかと思うと、感慨深いものがある。

楽しい学校生活が始まるね!

出産事情今昔

 60、70代の知人の女性たちが、自分たちの頃の出産の体験談を聞かせてくれる。
 
「私は2日間かかった」「3日間かかった」「ワゴン車の中でさっと産まれてしまった」
「自宅でさっと産まれてしまい、夫が靴ひもを解いてへその緒をしばった」などなど。

さらに、当時は時間がかかったときには、「驚異のオイル」というのを薬局で買って来て飲んだ、という話も。(70代オランダ人)
そのオイルの原料はなんなのだろうか〜? 
最近はきいたこともない。

それから oudse bruin beer という種類のビールを飲むと母乳によいよ、というのは3人から聞いた。
ビール飲みたいから、試してみたいが、アルコール禁止じゃなくてよいのだろうか。。。!

フリーランサー

 自分はオランダでは、「フリーランス」の音楽家という立場で、’ワンマンビジネス’(従業員がいない仕事)という登録になっている。日本では「自由業」にあたる。
アートに関する仕事の人ばかりでなく、オランダでこの肩書きの人に時々出会う。特に昨年お世話になったのは、大工さん。そして今回、助産師さんにお世話になった。

 大工さんについてはまたいつかの機会に書くことにして、今回の出産でお世話になったのはフリーランスの助産師さんだった。
私が通っていた助産院には4人の助産師さんがおり、出産の際にはそのうちの一人が担当してくれることになっていた。

 だが。。。。実際に「その時」が来たとき、助産院の緊急用の携帯電話にお返事をしてくれたのは、その日たまたま入っていたフリーランサーのピンチヒッター。
こういうことも、あり得ます、とは聞いていた。
だから初めて会う方が、緊急の破水に来た。誰が来ようと、助けてもらえるなら、、、という気分だったのでかまわなかった。

 ただ、覚えているのは、一応土足禁止にしている家に、ずんずんとブーツで入って来て、ロングヘアーが動くたびにをぱさっと翻り、香水が漂っていたこと。
「ごめんね、香水あなたにはきついかもしれないけれど」とも。

 てきぱきと仕事をして、風のように去っていった。病院に行くことになったとき、私達はタクシーで、彼女は自分の車で病院まで来てくれて、引き継ぎをして、また去っていった。

 出産後一週間の間に、助産院から3回の往診があるのだが、偶然にも彼女が一度来てくれたので、お礼の挨拶ができた。
「昨晩も出産に立ち会っていてね。今朝もほとんど寝ていないの。」ととっても忙しそう。

 ジーンズにブーツ、ロングヘアー。道ばたで出会ったら、普通のきれいなお姉さんで、彼女が今出産に立ち会っていてね、、、なんて誰もわからないだろうと思う。
フリーランサーは「ワンマンビジネス」の自分の会社だから、仕事着も、もちろん自由。でもこの仕事で香水って。。。妊婦は匂いに敏感なのである。
 実際仕事をしている姿はかっこよく、楽しそうだった。

 「自分のスタイル」的な働き方は、とてもオランダらしい。
 記憶が鮮明な一日の中でも、とくに印象深い存在だった。

 

産褥看護士さんのヘルプ

 オランダでは出産後の約8日間、産褥看護士の自宅ヘルプが受けられる。(うちの場合は計49時間だった)これは、もしも出産後何かの事情で病院に3日間滞在したら、自宅でのヘルプは5日に減る。帝王切開などで入院が長引くと、自宅ヘルプはなくなるだろう。

 毎日母子の健康チェックをしてもらい、授乳の指導や、赤ちゃんの体調の見方、お風呂の入れ方などを学んだ。うちに来てくれたソーニャはすばらしかった。先に述べた仕事の他、さらに三度の食事を作ってくれて、買い物、掃除、洗濯干し、アイロン掛けも素早くこなす。いつも以上に部屋がつねに片付いていて、タンスの中の赤ちゃんの洋服も一目でわかる。

ソーニャの作ってくれる、オランダ式朝ご飯はとってもおいしかった。オランダのboterham (オープンサンドウィッチ)ひとつでも、のせるチーズやハムの切り方ひとつで味わいが違う。

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 噂に聞くオランダ人の好きな「イチゴサンドウィッチ」。マーガリンを塗った白パンにイチゴのスライスとグラニュー糖。この組み合わせ、意外とおいしいのです。

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 ソーニャが毎朝来てくれて、私は自分の静養と赤ちゃんのことを学ぶのに集中できた。

 

安産、それとも難産?

 5月4日夜中に無事に男児を出産した。陣痛がはじまってから約46時間後となり、その後体力回復に思った以上に時間がかかった。
母子無事に、病院にて出産。オランダらしく自宅出産を希望していたのはかなわなかった。

 陣痛が始まって6時間後に助産師さんに電話したところ、「様子みて、話せなくなるくらい痛くなったら、もう一度電話ください」との返事。「話せなくなったら電話。。?!」
自分の陣痛が弱く、なかなか発展しなかったので30時間目、3日の朝9時に、助産師さんがとうとう家にきて、人口破水となった。その後、赤ちゃんが羊水中に便をしたらしく、その場合の約束どおり、午後2時半頃に病院へ行くことに。

 緊急事態の窓からはしご車か、、、と思いきやタクシーだった。陣痛がはじまっていてもこの程度では緊急ではなかったらしい。(!)それでも「話せない」痛みの段階にきていた。
 
 助産師さんが早急に病院の空きを調べ、3件目にしてやっとベッドの空きがあった。その間は痛みに耐えながらも頭のなかでどうなるのだろうとドキドキ。。そんなときに限って、タクシーでの道中、アムステルダム特有の運河の跳ね橋が上がったり、道路の通行止めがあったりで、永遠の長さに感じた。病院では助産師さんのアドバイスもあったので、さっそく麻酔をお願いした。この調子ではいつまでかかるかわからないからだ。脊椎の麻酔が効き始め、やっと正気に戻り「麻酔すればこんなに楽なんだ。。。本読みながらでもいけそう」と思っていたところ、1時間ほどすると、麻酔が左半身効かなくなってきた。さらに陣痛促進剤をいつのまにか、点滴されていたので、最後の2時間ほどはひどい痛みをしっかり経験した。

 その間に麻酔がきいていません、、、と訴えたくて3度押したナースコールには、「今麻酔師さんが、手がいっぱいでこられる人がいないの、ごめんね」という返事。でも3度めに来てくれた時には、その痛みのお陰で次の「いきみ」の段階に入るとのことだった。いきんで、と言われてももう力が尽き果てて。。その時は夜10時半すぎ。ここで私がやめたら、赤ちゃんが出てこられない!とがんばった。赤ちゃんが、産婦人科医の手で取り上げられ、私のお腹の上にのせてくれたとき、くしゃくしゃの顔の赤ちゃんが宇宙からこちらに飛んで来て、着陸してくれたように思った。
 「あー、終わった!!」

 妊婦ヨガで練習した呼吸法はとにかくとても助けになった。呼吸法以外に痛みを逃れる方法もないのだ。点滴を腕に打たれて、身動きできないため、陣痛の受け取りも、出産するときも好きな姿勢で、というのは病院では無理だった。でも病院の施設のお陰で母子の命が安全に出産できたことには本当に感謝している。
 陣痛促進剤もなく、麻酔もなく、母体の状態をチェックする医療機器もない頃には、たくさんの危険もあっただろう。

 少し話はそれるが、友人の友人で、「自然なお産をする」コンセプトの施設で出産に望んだところ、同じように非常に長い陣痛となり、さらに持っていたヘルニアを併発して非常に痛みに苦しむことになったそうだ。病院にすぐ移りたい、と本人は言ったにもかかわらず、施設の人とご主人の説得により、その施設に残り、薬も使わなかったそうだ。
母子ともに無事だったらしいからよかったが、それは本当に痛い上、リスクもあったことだろう。

 陣痛がはじまって、数時間ですべてが完了、、という出産に比べたら難産、と言えるのかもしれない。一度しか経験していないので、こんなものだ、と思えばそれでおしまい。大変でないお産なんてないだろう。

 母子ともに二つの命が助かり、生きていること。本当に尊いものを授かった。赤ちゃんもものすごく疲れていたのか、産まれた日、次の日もしばらくずーっと眠っていた。小さな命もこんなにがんばった。

 授かった命を一生懸命に生きていくこと、簡単ではないけれど、今改めて思う。